伊勢原ささら/作
斑目ヒロ/イラスト


2015年9月18日
溺愛ツンデレ
シリーズ名 花丸文庫
作品名 Life is Beautiful
巻数 全1巻
作家名 伊勢原ささら/作 斑目ヒロ/イラスト
本体価格(税別) 713円
判型 文庫判
内容 大型新人デビュー! 人生に絶望し崖から飛び降りようとしたところを優しい図書館司書の綾部に助けられた瑞生。だが、食事や住む部屋まで提供してくれる綾部の好意を、不信感の塊の瑞生は素直にうけとることができず……
ISBN ISBN978-4-592-87741-7


P40〜P48より抜粋

「君に提供したいのは、この隣の部屋なんですよ」
「え……?」
 空き部屋の件は自分をここまで連れてくるための方便だと思っていたのだが、本当の話だったのか。
「このアパートは、僕の祖父のものなんです。隣の部屋も僕が物置として借りてるんですが、置いてある物を気にしなければ十分住めますよ。ちなみに間取りはここと同じなので、広いとは言えないですけどね」
 瑞生にとっては十分広い。それ以前に、雨露をしのげるだけでも本当にありがたい。けれど、その好意を素直に受け取るには抵抗がある。相手の真意が読めないからだ。
「さっきも言ったけど、俺今一円も払えないよ?」
「ええ、わかってます。もちろんお金はいりません」
「なんで?」
「はい?」
「なんでそんなにしてくれんの? 俺はそんなに可哀相? 死のうとした宿無しを拾ってきていいカッコして、あんたはすごくいい気持ち? 自己満足に浸ってるわけ?」
 他人の善意が信用できない。よくしてもらっても、何か必ず裏があると思ってしまう。
(これまでだって、ずっとそうだった……)
 警戒に表情を硬くする瑞生を、綾部は澄んだ瞳をわずかに見開いてみつめていたが、刺立った言葉に気を悪くした様子もなくいつもの柔和な微笑を見せる。
「君のことを可哀相だなんて思っていませんよ。ただ、僕自身が一人の生活に嫌気がさして、話し相手が欲しいだけのことです」
 そんなこと、嘘に決まっている。わかっているのに、なぜ気持ちが揺らいでしまうのだろう。
「有沢君」
 綾部の深みのある声に名を呼ばれると、胸が妙な具合に震える。彼は名前をただの符号ではなく、その名を持つ人間をこの世界にたった一人の大切な存在と認めて口にしているような丁寧さで呼ぶのだ。
「深く考えず、ただたまたま縁があったと思えばいいのでは? 君は部屋を確保できるし、僕は料理自慢ができる。お互いにメリットのあることですから。ね?」
 口下手な瑞生は、言いくるめられると反論できない。ばつの悪さに唇を噛み俯く耳に、それについては一件落着といった風な気楽な相手の声が届く。
「そうだ、隣の部屋のことなんですけど問題が一つあって、今ユニットバスが壊れててお湯が出ないんです。すぐに修理してもらいますから、それまでここのを使ってくれませんか?」
 その一言で、瑞生は自分がもう三日も風呂に入っていないことを思い出した。公園のトイレで水浴びはしたが、凍えそうに冷たくて到底十分とは言えなかった。
「俺、汚いかな。臭う?」
 思わず聞いてしまった。綾部は一瞬キョトンとしたが、あっさりと首を振り笑った。
「そうじゃなく、冷えただろうから温まってほしいだけですよ。食事の支度をする間に、よければ入ってしまってください。タオルとかは適当に、置いてあるものを使ってもらっていいですから」
 遠慮する余裕もなく、着替えの入ったバッグを抱えてバススペースに飛び込んだのは、急に恥ずかしくなったからだった。
 洗面台の鏡に映った自分の姿を見て、瑞生は呆然とした。伸びっ放しの髪が、色艶のない顔をほとんど隠してしまっている。冬にしては薄着のパーカーと色褪せたジーンズは、公園でそのまま寝ていたので所々泥汚れがついて見られたものではない。
 よくこの格好で堂々と図書館に入れたものだ。不審者として叩き出されても、文句は言えないところだった。
 これ以上綾部の世話になるのには抵抗があったが、風呂に入りたいという思いは切実だった。
 コックを捻るとシャワーから熱いお湯が迸り出る。もうもうと立つ湯気が冷えた体を包んでいく。
 着ているものを手早く脱ぎ捨て湯を頭から浴びると、生き返った心地がした。汚れとともに溜まった疲れが流れ、頑なだった心も解れていくようだ。
 なるべく借りを作りたくなくて、最後にバスタブを綺麗に磨いてから上がった。バッグから取り出した自分のタオルを使い新しい服に着替えて、生乾きの髪を拭きながらドアを開けると、食欲をそそるいい匂いが漂ってきた。賞味期限切れ間近の惣菜や菓子パンでは味わえない、ぬくもりのある手料理の香りだ。
 綾部はガス台の前に立ち、鍋をかき回していた。
「あの……」
 礼を言うべきだろうと思い口を開いたが、『ありがとう』のたった一言が出てきてくれない。他人に礼を言うことすら、瑞生にとっては相当高いハードルだ。
「よかった、グッドタイミングでしたよ。ちょうどでき上がったところ……」
 振り向いて瑞生を見た、綾部の言葉が途中で止まった。常にフラットで内面の見えなかった瞳が、瑞生の顔の上で留まり驚きに見開かれる。彼が今日初めて見せた、はっきりとした表情の変化だった。
「君は、なんて……」
 言葉は続かない。しかしわずかに細められ向けられる瞳には、彼の涼やかなイメージにはそぐわない熱がこもっていた。その熱い眼差しに、どういうわけか胸が浮き立ってしまうのを感じ、瑞生は動揺し俯いてしまう。
 自分の顔立ちが人より整っているらしいことを、瑞生は一応知っていた。けれど他人からは羨ましがられるはずのその特徴が、瑞生にとってプラスに働いたことはただの一度もなかった。むしろ自動車部品工場では、それを嫉まれていじめの的にされたのだ。
 鏡を見るのは嫌いだった。少し目尻の上がった二重の大きな瞳も、筋の通った小さめの鼻も、紅さの目立つ薄めの唇も全部、自分を捨てた母親そっくりだからだ。
 恵まれているらしいその容姿をうまく利用すれば、食うにも困る状況には落ちなかったのかもしれない。だが、自分の忌み嫌うものに頼ってでも生きたいとは思わなかった。美しい容姿を最大限に使って、子供そっちのけでしたたかに贅沢を貫いた母親のように。
 人目を引く顔を隠したくて、わざと前髪を伸ばした。誰にも注目されない平凡な容貌が欲しかった。
 いつも険しい目をして下を向き、全身で他人を拒否している瑞生に、たまたまその美しさに気付いたからといって、言い寄ってくる者はほとんどいなかった。それでも構わず近付いてきた者は、男女を問わず容赦なく徹底的に拒絶してやった。
 これまでずっと神経質なほど気を付けていたのに、うっかり綾部に素顔を晒してしまったのは油断以外の何物でもなかった。生々しい人間くささを感じさせない彼の雰囲気に、つい警戒心が緩んでしまったのかもしれない。
「な、なんだよ……」
 じっとみつめられることに耐えられず、視線を伏せたまま怒った声を出すと、
「驚いたな……君はとても美しい人なんですね」
 と、ストレートな賛辞が返り、鼓動がさらに速くなる。
「髪で隠してしまうのはもったいないな。もう少し、見せて……」
 囁くような声とともに手が伸びてきて、瑞生はびっくりして飛び退いた。
「さ、触るなよっ」
 礼儀正しく清潔なイメージの彼の思いがけない甘さを含んだ口調に、瑞生はうろたえ本能的に身構えるが、我ながら不快ではないことに戸惑ってしまう。おかしいほど高鳴る胸はなぜかフワフワして、表向きは拒絶しながらも、きっと本当に嫌だとは思っていない。
(なんなんだよ、これ……)
 鼓動を静めようとじっと体を硬くしていた瑞生に、綾部の明るい笑い声が届いた。
「大丈夫、何もしませんよ。じゃ、ご飯にしましょうか」
 そう言った声は、完全に元の綾部に戻っている。恐る恐る見上げた顔も、すっかり元通りの平静な彼だ。
 熱っぽく細められた瞳も甘い囁きも、もしかしたら自意識過剰からくる幻覚だったのかもしれない。気まずさとともに無理矢理納得し、妙な気分になってしまった自分を叱咤して、瑞生はようやく胸を落ち着かせた。
「さぁどうぞ。こっちに座ってください」
 綾部は部屋の中央に出した小テーブルの上に、深皿によそった料理を置く。トマトベースのスープの中にざっくり刻んだ野菜がたくさん入った、体が温まりそうな料理だ。
 そんな見るからに手のかかったものを食べるのは生まれて初めてで、瑞生はスプーンを取るのをためらう。心のこもったまともな食事などしたことがない瑞生にしてみれば、人生初の手料理体験なのだ。緊張するなというのが無理な話だ。
「じゃ、先に味見してみますね。初挑戦のメニューだから僕も不安なので」
 綾部はしつこく勧めようとせず、自分で先に一匙すくって口に入れ、
「うん、結構いけますよ」
 と、満足そうに頷く。
 促すように微笑まれ、瑞生はおずおずとスプーンを取った。
「餌付けしようとしても無駄だから。俺あんまり食い物とかに執着ないんだ」
 おとなしく食べてやるのも癪で憎まれ口を叩くが、相手は相変わらず楽しそうに声を立てて笑うだけだ。
 すくい上げたにんじんをそっと口に入れると、コクのあるまろやかな味わいが舌一杯に広がった。食べ物を純粋においしいと思ったのは初めてだった。

続きは文庫で読んでくださいね。